機械系工学教室・専攻 小史 |
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「京都帝国大学」の設置から 「京都大学」の発足へ 明治30(1897)年6月18日、勅令により京都帝国大学が設置され、同日官制が公布された。最初に機械工学3講座を含め合計21講座からなる理工科大学が開設されることになり、同年9月14日、土木工学・機械工学の2学科で授業が開始された。これが機械工学教室の始まりであり、同時に京都大学の始まりでもあった。それから3年後の明治33(1900)年7月14日、第1回卒業証書授与式が挙行され、機械工学科からは11名が卒業した。理工科大学は大正3(1914)年7月に理科大学と工科大学に分けられ、工科大学は、機械工学科を含む5学科26講座で構成されることになった。さらに大正8(1919)年には、工科大学は工学部と呼ばれることになった。 機械工学科は、明治30(1897)年の創設当時は、機械工学第一講座、同第二講座、同第三講座から成っていたが、明治32(1899)年に機械工学第四講座、明治34(1901)年に材料強弱学講座、明治35(1902)年に機械工学第五講座が設置された。さらに、大正時代に入って、大正10(1921)年に機械工学第六講座、大正11(1922)年に機械工学第七講座が増設されて機械工学科は全部で8講座の構成になった。機械工学第七講座では気体力学や空気力学が講じられていたこともあり、同講座は、昭和17(1942)年、航空工学科の新設に伴って同学科に移された。 第二次世界大戦後の昭和22(1947)年、「帝国大学官制」は「国立総合大学官制」に改められ、「京都帝国大学」は「京都大学」と改称された。さらに、昭和24(1949)年、「国立学校設置法」が制定され、「学校教育法」による国立大学、いわゆる新制大学としての京都大学が発足した。当時、工学部は機械工学科7講座を含め、11学科64講座を擁していた。 昭和30年代に産業界は高度経済成長期に入り、科学技術の振興と理工系学科の拡充という政府の政策によって、工学部では大幅な学科増設や改組・拡充が行われた。 機械工学の分野においても、技術革新により多数の技術者が要求されるようになったことを背景にして、機械工学に関係する多くの学問分野の中から、特に生産と制御に関する研究と教育に主眼を置いた学科として、昭和35(1960)年に精密工学科が設置された。この学科の設置にあたって機械工学第五講座を振り替えて精密工学第一講座とし、昭和36(1961)年に精密工学第二講座と同第三講座が、昭和37(1962)年に同第四講座と同第五講座が、そして昭和38(1963)年に同第六講座が開設され、合計6講座の体制が整った。 また、工学の急速な発展から各種機械の高能率化や自動化に適する設計等の研究が必要とされる状況に対応して、昭和37(1962)年には、機械工学の基礎的原理に重点を置く新しい学科として、6講座によりなる機械工学第二学科が新設され、昭和37(1962)年に高温材料工学講座、昭和38(1963)年に動力熱工学講座と伝熱工学講座、昭和39(1964)年に振動工学講座と流体機械学講座、昭和40(1965)年に潤滑油圧工学講座が開設された。 学生定員は、昭和24(1949)年の新制大学発足時には30名。昭和28(1953)年には40名、昭和32(1957)年には50名であったが、改組・拡充と学生増募により、昭和37(1962)年の時点で機械工学科、精密工学科、機械工学第二学科各40名、機械系工学科全体で1学年 120名になった。 昭和38(1963)年には、それまで長く番号で呼んでいた講座名を、内容を示す名称で呼ぶように改められ、機械工学第一、第二、第三、第四、第六の各講座は、それぞれ、熱力学講座、機械設計学講座、流体工学講座、内燃機関講座、機械材料学講座になり、また、精密工学科の第一から第六までの講座は、それぞれ、精密加工講座、精密機械要素講座、自動機械講座、精密計測工学講座、塑性力学講座、制御機器講座と改称された。なお、さかのぼって、昭和28(1953)年には材料強弱学講座は材料力学講座と改められている。 大学院進学を奨励、学部科目の不足を補う。 大学院に関しては、昭和28(1953)年に機械工学専攻(7講座)、昭和37(1962)年に精密工学専攻(6講座)および昭和41(1966)年に機械工学第二専攻(6講座)が開設されたが、新制教育制度への移行に伴う学力低下を恐れ、機械工学科学生に対してできる限り大学院に進学することを奨め、大学院第1学年の科目によって学部科目の不足を補う処置をとった。この結果、昭和29(1954)年から昭和38(1963)年の間の10年間は、大学院第1学年を終えた後に就職する卒業生が大部分を占めた。 工学部の多数の学科の学生に共通する基礎科目を教授するために工業数学第一、同第二講座など6つの共通講座が設けられ、これらに続いて、材料力学を金属系学科、原子核工学科、化学工学科をはじめとする工学部各学科の学生に「一般材料力学」として教授し、あわせて母体教室である機械系工学科での教育・研究に資するために、昭和42(1967)年に一般材料力学講座が設置された。 このようにして、機械系工学科は、一般材料力学講座を含めて機械工学科7講座、精密工学科6講座、機械工学第二学科6講座になり、これらが一体となって運営されることになった。また、日進月歩の機械技術の進歩に応じて、機械工学の基礎的原理を応用科学の立場から教育し、いかなる機械技術の進展にも対処しうる技術者を養成することの必要性から、昭和39(1964)年から昭和44(1969)年までの間については、機械系工学科と航空工学科は学部科目の統合を行い、第3学年および第4学年の前期には4学科学生に対して機械技術者に必須の基礎工学的な科目を共通に配当して、4学科が相携えて学生の教育を推進した。 専門分野にとらわれない境界領域の開拓 その後、拡大し多様化した産業界から、環境と調和した機械工学の発展と、従来の専門分野にとらわれない境界領域の開拓という強い要請があり、機械系工学科では、昭和50(1975)年、機械工学の新たな展開を教育・研究上で実施し、創造的な技術開発を担う研究者・技術者を養成するために改組・拡充を行い、機械工学科8講座、精密工学科6講座、物理工学科5講座で出発することになった。 機械工学科は、機械技術の基礎となる学理、ならびに設計・製造に関する技術の基礎と応用を中心に研究・教育を行う学科であって、材料力学、熱力学、機械材料学、動力工学、流体工学、塑性工学、伝熱工学、潤滑油圧工学の8講座、および一般材料力学講座の編成になった。 精密工学科は、近代産業の基礎となる生産および制御工学と生産システムに関する研究・教育を行う学科として位置付けられ、精密加工学、機械要素、制御工学、生産工学、システム工学、および振動工学の6講座の構成になった。 物理工学科は、物理学的側面から工学を発展させるという新しい学問分野で、ミクロとマクロの融合を目指す学科とし、材料強度学、物性分光学、材料物性学、熱流体物性学、量子物性学(開設は昭和51(1976)年)の5講座が置かれた。 このような講座の編成は平成6(1994)年に工学部の大学院重点化改組による改編が行われるまで続いた。また、学生定員は機械工学科60名、精密工学科40名、物理工学科20名の合計120名になった。学生定員については、昭和61(1986)年以降は、第二次ベビーブームに対応した臨時増募によって若干増加している。 1980年代に入って、機械工業界は、大量生産から多品種少量生産への移り変わりなど、ますます多様化し、それを支える産業技術は極めて高度化・複雑化し、さらには機械システムの知能化に代表されるように、技術は先端化・融合化・統合化が進んだ。このような趨勢に対応するためには、より深く充実した教育を行うことのできる態勢を確立することが必要であると考え、機械工学科・物理工学科と精密工学科はそれぞれの学科独自に設定したカリキュラムに沿って教育することにし、昭和61(1986)年から、機械工学科と物理工学科よりなる機械系工学科と精密工学科はたがいに関係を保ちながらも、独立した運営形態をとることになった。 基礎研究の充実と新分野への進展 京都大学では、近年の先端化した科学技術の要求と、21世紀に向かっての高度な基礎研究の一層の充実と新たな学問分野への進展の必要性に応え、さらには多面的かつ高度な専門能力を有する人材の育成を目指して、教育・研究の重点を学部から大学院に移行させるいわゆる大学院重点化を目的とした改組を平成5(1993)年から実施した。 学部については、従来の機械系工学科(機械工学科と物理工学科)と精密工学科は、平成6(1994)年に、航空工学科、金属加工学科、冶金学科、原子核工学科とあわせて物理系7学科で、大学科である物理工学科(臨時増募分を含む学生定員250名)を構成することになった。学生は一括募集し、第1、2学年における基礎科目については共通講義を行い、第3学年進学の時点で、学生が将来進む方向に合わせて若干の専門性を取入れたコース(学科目)制を敷いた。従来の機械系工学科と精密工学科に対応して機械システム学コースが、後に述べるエネルギー応用工学専攻あるいはエネルギー科学研究科につながるエネルギー理工学コースが設けられた。 大学院は機械工学専攻と、物理工学専攻から改称した機械物理工学専攻(合わせて機械系工学専攻として一体運営)、精密工学専攻になり、さらに、従来の機械工学科、冶金学科、金属加工学科、および原子核工学科からポストを持ち出してエネルギー応用工学専攻が新設された。 大学院を構成する講座については、従来の学部講座の教官よりなる基幹講座は人事の流動化および教官間の研究の連携を促進するために大講座制とし、その中に研究活動の核としていくつかの「分野」を設置することにし、加えて、新たに先端的・萌芽的な研究、未来志向型の研究の進展を促すことを目指して大学院専任講座が設けられた。さらに、研究・教育の充実のため、関連研究所や施設・センター等の研究部門を協力講座や研究協力分野として含めることにした。 学部・研究家の枠を超え、大学院研究科発足 学問のめざましい進歩によって、一方では専門分化を強めながら、他方では学際的・総合的な研究を進めることが必要になり、そのような動向に応えるために、学部・研究科の枠を超えた研究組織として大学院研究科の設置が検討された。大学院研究科は、複数の既設研究科からいくつかの講座が集まって新研究科を組織し、新しい学問分野の展開をはかることを目指したものである。平成8(1996)年度には、エネルギー問題を幅広く自然科学、工学、人文・社会科学の立場から総合的に教育・研究する大学院エネルギー科学研究科(4専攻22分野で構成)が発足した。従来の機械系工学科関連からは、エネルギー応用工学専攻が移行した。 また、平成10(1998)年には、高度情報化社会の健全な発展に資する学問的基礎を確立し、情報およびその基盤システムを創発する基礎としての「情報の学」を形成・発展させることを目的とした大学院情報学研究科(6専攻24分野で構成)が発足し、それには精密工学専攻から1分野が移行した。そこでは、工学部物理工学科の卒業研究を兼担している。
精密工学科が新設され、旧本館を壊して工学部2号館を新築する直前の昭和36(1961)年における建物の配置を図2に示す(写真4)。また、平成12(2000)年における建物配置を図3に示す。
昭和37(1962)年から40(1965)年まで4年がかりで、旧本館@が北西部から順に壊されて工学部2号館(R4-1)Jが建てられた。昭和47(1972)年航空工学教室本館(R3-1)の改築に際し、機械工学教室南側の実験室Gの代替建物として航空工学教室実験棟Iが機械工学教室に移管された。昭和59(1984)年、機械工学教室旧本館のなかで最後まで残った東端部ならびに旧図書館F等の跡地に物理工学教室(当時)の建物が建てられ、工学部2号館として完結した。 平成3、4(1991、1992)年に大学の研究環境の劣悪さが報道され、機械工場とそれに続く実験棟Aも一つの例として取り上げられるに及び、その改善策として東北隅のE、Iの跡地に機械系工学教室実験棟Lが、平成5(1993)年末に建てられた。 さらに、平成8(1996)年旧工学研究所の跡地に地上8階地下1階の新棟Mが竣工し、機械系工学専攻、精密工学専攻の一部が移転したのを最初として、この建物は数年にわたって増築され、機械系工学教室の主要部分は京都帝国大学創設時のそれからはいくぶん北に位置するこの一連の新しい建物に移転し、現在に至っている。 このようにして、明治30(1897)年6月18日に源を発する京都大学の機械系工学教室・専攻は、時代の流れとともに大きく発展し、平成9(1997)年6月18日には創立百周年を、平成12(2000)年7月14日には、第一期の卒業生を送り出してから百年目を迎えることになった。そして、さらに、第二世紀における新たな進展を目指して、日々のたゆまぬ努力が積み重ねられている。 |